#氷雪のシアタールーム

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ある精霊の昔の話

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生きることに必要なものは熱というエネルギーだ。

 彼女は精霊として生まれた、雪深い冬国を彩る冷気の精として。そして生まれながらにして、他の精霊たちとは一線を隔した能力が備わっていた、他の精霊たちが歩いた道々には霜がおりるが、彼女が歩いた道はたちまちに凍りついてしまったし、他の精霊がいくら駆け回っても力強くそこにあった野生動物も、彼女の気配を感じれば安全な暖かい場所を探した。 望む望まざるに関わらず、彼女はそうとして生まれたのだ。 いくら嘆こうが、生まれというものは変えようがない、それは人間も動物も、神も精霊も同じなのだ。

 あんまりにも影響が大きいから貴女はあまり動き回らぬ方が良いでしょう、同じ精霊たちや妖精、宵闇の世界に生きるものたちは皆同じようにそう言った、彼女は最初のうちは自分でもそのことに納得して、なにもない雪山の頂上で、遠くに見える町の灯りをじっと見つめて過ごしていた。精霊たちが町々へ飛翔すれば、雨は雪に変わり、人々は暖炉に火を入れる。精霊たちが気まぐれに強く冷気を吹かせれば、ぴったりと閉じられた家々は全て白く染まる。風が止み陽が登れば、白い世界に色を付けるように人々や動物が次々と出てくる。彼女はずっとそれを遠く眺めて、そうしてとうとう我慢が出来なくなった。こんなに遠くでも人の営みを眺めるのは面白いのだ、もっと近くで見てみたい、きっともっと面白いはずだ。そう考えた彼女は、近くにあった人間の住処、少し外れた場所にある大きな家に遊びに行った。遊びに行ってしまった。


 その家は貴族の夏の屋敷で、住んでいたのは不在時の管理を任された使用人一家だった。その日は酷く冷え込んでおり、家人は戸をしっかりと閉め切って、暖炉に次々と薪をくべ室内を暖めた。暖炉の上には網をかけて、固く焼かれた黒パンを薄く切って炙り、鍋には保存のきく野菜類を煮詰める、そんな冬の団欒だ。冬が厳しい地に生きる人間たちの知恵でなりたつ、不幸でも幸福でもないごく当たり前の生活に、彼女は唐突に降り立った。

 煙突から飛び込んだ彼女にとって、人の熾した暖炉の火などは問題にもならなかった。炎さえも凍り付かせる局地的な冷気がその家を襲い、不幸中の幸いだろうか、苦しみなど感じる間もないままに、その部屋の全ては凍り付いた。彼女は一瞬で全ての生命が死を迎えた冷たすぎる家の真ん中で、それでも目を輝かせていた。初めて身近に見るものたちに夢中になっていた。人間たちが動かないのも、眠っているからだろうと捉えていた。
 次々と部屋を回れば、その部屋部屋が凍り付いていく。部屋ごとに様々なものがあり彼女は喜んだ、精霊たちが使うのと似たようなもの、似ていないもの、様々あった。楽器の形はとても似ていて、凍り付いた弦をつま弾けば、ほんの一瞬音が鳴り、そして凍り付いた弦はぼろぼろと崩れていった。人間の作る楽器は随分と繊細なのね、そう思ってそれ以上は触れないでおいた。
 書斎は立派なものだった、多くの本はほこりをかぶってはいるものの、古いものから新しいものまであった。彼女は思いつく限りに本を手に取るとパラパラとめくった。歴史書に子供向けの童話集、写真集やラブロマンス、冒険活劇、ミステリー、この家には随分と乱読家がいたらしい。そのうち彼女は本を読むことに夢中になった、次から次と休むことなく本を手に取り読むことを、精霊故に睡眠も食事も休憩も取らず続けた。彼女が笑うたびに冷気は渦を巻いたし、彼女が悲しく思えば冷気は強く強くなった、本に書かれた内容の真似事をしてみたり、知らなかった人間のことを多く知った。人間たちが作ってきたものを、娯楽を、歴史を、生活を読み、そして彼女は気づいてしまった。

 精霊や妖精にも、神にも死は訪れる、けれどもそれは非常に珍しい出来事だ。個としての意思がないような存在もある精霊たちにとって、生命というのは極めて大きな枠組みなのだ。故に彼女は知らなかった、人間の命が非常に儚いものであることを。それこそ、彼女の冷気にあてられただけで死んでしまうことを。凍り付いた人間の一人、なんとかならないかと彼女が氷を引きはがせば、氷に張り付いていた皮膚がズルズルと剥がれ崩れた。反射的に悲鳴を上げれば、強まった冷気が崩れかけた人間をその状態で凍り付かせる。どうすればいいのか、誰か、人間に詳しい誰かを、そう思い当たった彼女が家から急いで飛び出すと、外はもうすっかり春になってしまっていた。彼女の冷気はとても強くはあるが、ごく局地的なものでもあって、季節をコントロールするような力はなかった。見知った冬に生きる幻想たちは春と夏の住処―それらは人里からは離れた場所だ―にすっかり移動してしまっていて、道々を季節外れの冷気で凍り付かせながら、やっと見つけたマロースに彼女が助けを求めるころには、哀れな使用人一家は人間たちに発見されてしまっていた。


 彼女は自分の犯した罪に絶え間なく涙を流したが、彼女の中で吹き荒れる冷気は彼女の流したかった涙も全て凍らせてしまった。失敗には挽回をと望んでも、彼女には人間に返せるものが何もなかった、彼女が人間に与えられるのは死しかなかった。

 挽回が許されぬならば罪には罰が相応しい、そう考えた彼女は人も動物も、精霊たちまでもが訪れない果てに自らの牢獄を作って、決して人に近寄らぬようにした。マロースはそんな彼女を憐れんで、クリスマスの夜に空高く舞い上がって冷気を降らすようにと一つ役割を与えた。分厚い雲のもっと上から彼女が冷気を落せば、拡散された冷気は大地に降り注ぎ人々は足早に屋内へ向かう。マロースの仕事の手伝いだ。年に一度、人間の姿を見ることもなくただぐるりと空を回って、そして牢獄に戻る彼女に、マロースはさらに報酬として本を与えた。

 本は彼女の心の慰めになったが、同時にあの日の罪を思い出させるものでもあった。彼女の牢獄には本が増えていき、彼女はなにもない牢獄で繰り返し本を読んだ。彼女の慰めであり、罪を思い出させるものであった本は、また、彼女の憧れと劣等感も暴き立てる。本の中の人間の営みは変わらず彼女の心を躍らせた。山の麓、湖畔のそば、川の流れ、海の近くへ作られた人間たちの町、家があり教会があり、学び舎や、王や貴族の住まう邸宅、人々が憩う公園には彫刻が飾られる。本が集められた図書館に、映画を見に映画館へ集う人々…そんな世界を夢見ながら、そこに存在したかったのに傷つけることしか出来ない自身への絶望を繰り返し味わった。彼女の感情が揺れ動けば牢獄中を冷気が暴れ、外の世界にも影響を与えた。彼女の牢獄の周囲には動物も植物もなく、鳥すらも訪れない地になっていた。氷と岩と本の牢獄で、流す涙も凍り付かせた彼女は、本を読み、読み終われば悲しみに心を狂わせて、眠りにつく。絶望と孤独と罪の意識に苛まれようが、彼女が狂わせ、彼女を狂わせる力は変わらなかった。


 とあるクリスマスの夜明けだ、マロースの手伝いで一晩の自由を、そう言えど牢獄となにも変わりのない厚い雲の向こうで彼女は過ごした。そして、また憂鬱な一年を迎える牢獄へと戻れば、一人の少女がそこにいた。正確に言えば、少女はもう生きてはおらず、ただの物と変わりがなかった。彼女は酷く驚いて、逃げ出しそうになったが、彼女が逃げられる場所はどこにもなかった。

  生物のいない場所で遺体の損壊は少なく、まるで眠っているかのような姿だが、肌には血の気がなく元より白い肌色は新雪のように真白だった。薄く開いた口元は流れない血で紫色に染まり、指先は逆に痛々しいほどに赤かった。金の髪が吹き付ける冷気に揺れ、かすかに凍り霜をおろす。美しい娘の、美しい死体だった。どうやって少女がこの地へたどり着いたのか、全く想像はつかなかったが、他の人間はもちろん、動物や植物さえもないこの果ての地で独りぼっちで命を終えたであろう少女に彼女は深い哀れみを感じた。
 そしてまた、少女のことが他人とは思えなかった。手足には過酷な道を歩んだであろう細かい傷はあるものの、少女の遺体は綺麗なもので、誰かに殺されたような形跡はなかった。つまり彼女は行くべき場所がどこにもなくて、そうして最果てにたどり着いてしまったのだ。彼女はそう考えた。世界から捨てられながらもわたしに出会ってくれた少女は、わたしよりもよほど強いと眩しく思う気持ちもあった。そんな少女のことを、もう死んでいるからと、凍らせ砕け散らせることは決して許されないことだとも思った。あの時のようにはしない、そう決意した彼女は少女へそっと手を伸ばした。精霊の不可視の手は少女の中に潜り込み、冷えてもう動かない臓腑が横たわるその中心、心臓を凍り付かせた。そして彼女はそこに潜り込んだ。

 閉ざされた瞼を開いて、目を通して世界を眺める。ゆっくりと起き上がり、身体を動かしてみれば、それまで感じたことのない地面に引かれるような、袋いっぱいに砂を詰め込んだような、そんな重みを全身に感じた。思い出したように肺を動かして空気を吸うということをしてみる。体内が冷え切っていた為にほんの僅かではあるけれど、空気に反応して呼気が白く曇った。彼女にとっては初めての経験だ。本を手に取り力を込めれば、革表紙に霜が降りていくが、前のように瞬時に凍り付くようなことにはならなかった。

 やろうと思えば、いつだって少女の肉体を凍り付かせて砕いてしまえるし、そうして少女の心臓から飛び出れば、きっと元通りだろう。そんな予感がしていたが、試す気にもなれなかった。むしろもう二度と戻りたくはなかった。人間の暮らしを見たかった、吹雪と厳しさと死ではない形で、感情を表したかった。きっと恐らくは世界に見捨てられた人間の少女の、せめて肉体だけでも幸せにすることこそが、ようやくわたしに与えられた贖罪と挽回の機会なのだと、彼女は震えた。牢獄を背に駆け出して、もう二度と振り返ることなく世界へ飛び出した彼女の目からは、次から次と涙が頬へ流れ出した。嬉しくても涙が出るものなのね、もちろん知っていたわ、だって本で読んだもの。

 あぁでもやっぱり知らなかった、涙とはこんなにも温かいものなのね。 彼女は頬に流れる涙をぬぐって泣き笑いした。

 

文:ケイ
原案:ゆーら

 

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